fujiyosi0842’s blog

記事消去

"하나님의 사랑 주님의 눈물" を YouTube で見る


하나님의 사랑 주님의 눈물 - YouTube

神の愛主の涙

ルカ15章

ルカの福音書を開いてください。ここでの主題は、「恵みへの招き」です。前回は、食卓への招きという題で、話させていただきました。食卓に招かれるということは、交わりに招かれることであり、病人や貧しい人でも受け入れられるような交わりを、イエスが持っておられることを学びました。人を排除するような閉じられた集まりでなく、人を受け入れる開かれた交わりです。そして、今日は、パリサイ人たちの考えによると、まさに交わってはいけない人々がイエスと食事をともにしています。罪人です。15章は、罪人を受け入れる恵みについて語られています。そして、その恵みを退けることについて書かれています。

お祈り


 「主の苦しみにより、わが死はつぐなわれ
  主の涙は、わが喜びとなる
  それゆえに、主の尊き苦しみは
  われらににがけれど、なお、甘美なるものなり」

"마커스워십 - 주의 음성을 내가 들으니 (심종호 인도) I am thine, O Lord, I have heart Thy voice" を YouTube で見る


마커스워십 - 주의 음성을 내가 들으니 (심종호 인도) I am thine, O Lord, I have heart Thy voice - YouTube
恐れなく近寄れ
聖書によるメッセージ

マルコによる福音書」5章35節から43節までを朗読。

 

 36節「エスはその話している言葉を聞き流して、会堂司に言われた、『恐れることはない。ただ信じなさい』」。

 

 会堂司「ヤイロ」という人が自分の娘が危篤状態、「死にかかっています」ので、イエス様の所へ「何とか癒していただきたい」と求めて来ました。そのときイエス様は「わたしが行って祈ってあげましょう」と、会堂司の家に向かっていました。ところが、その途中で一つの出来事が起こりました。それが25節以下に語られています。

 マルコによる福音書」5章25節から29節までを朗読。

 

 この女の人は12年間も一つの病気で苦しんでいました。いろいろな医者に掛って、「さんざん苦しめられて」とあります。これはよくある話です。あちらこちら医者を替えて、次から次へといろんな治療を受けるけれども、結果はちっとも良くなくて、ますます悪くなるという、典型的なケースであります。この人はそういうつらい思いをしていたのです。しかも「その持ち物をみな費(ついや)してしまった」と、自分の持っていた一切のお金も無くしてしまうのです。こうなったら“泣きっ面に蜂”で、どうにもならなくなってしまう。恐らく希望を失っておったのだと思います。ちょうど彼女の町にイエス様が通りかかった。この人は前からイエス様のことを聞いていたに違いない。イエス様があちらこちらで不思議な奇跡といわれる業をしておられることを知っていました。だから、イエス様ならば自分の病気も癒されるに違いないと、彼女は信じたのです。しかし、これまでの経験もありますし、また何と言っても費用が掛るに違いない。最近でも最新先端医療というのは何百万円も掛るという、とても高額なものがあります。いくら請求されるか分からないから、彼女は真っ正面からイエス様に「私がこんな病気ですから癒してください」とは言えないのです。こそっと、隠れるようにしてイエス様に近づきました。イエス様は有名人でありましたから、沢山の人々がイエス様を取り囲んでいる。だから、近づこうにもなかなか近づけない。群衆をかき分けて、イエス様に近づいた。「せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと」、「身体の一部分でも触れば、きっと自分の病気は癒される」と信じたのです。そしてその衣に触りました。

 

そのとき29節に「すると、血の元がすぐにかわき、女は病気がなおったことを、その身に感じた」と。誠に不思議なことでしたが、女の人はイエス様の衣のすそに触っただけですが、すっかり病が癒されたのです。彼女は「これは良かった。うれしい」と喜びました。うれしいに違いない。といってあまり大っぴらにはできない。こっそりとやったことですから。またこれが知られて、イエス様から何か高額な報酬を要求されたら困りますから、そのままソーッと隠れていた。ところが、イエス様は気付かれたのです。30節に「イエスはすぐ、自分の内から力が出て行ったことに気づかれて、群衆の中で振り向き、『わたしの着物にさわったのはだれか』と言われた」とあります。ところがイエス様はそこで立ち止まって、「誰かわたしを触った者がいる」と言われて、動こうとしません。

 

ところが、これは瀕死の病気の子供のために出掛けていく途中でありますから、会堂司ヤイロもそこにいたのです。お父さんとしては気が気ではない。「早く行って自分の娘のために祈ってもらわないと、これは手遅れになるぞ」というわけです。イエス様は「触った人がいる」と言って、頑として動かないので、居たたまれなかったに違いない。でもイエス様はどうしても動かない。弟子たちも気になって、「先生、そう言ったってこんなに沢山の人がいるのだから、誰かが触るでしょう」と、「群衆が押し合っているのだから触っているに違いない」と。ところが、イエス様は「ただ単に触ったのではなくて、あるいは触れ合ったのではなくて、わたしの内から力が出て行った」と言う。イエス様を救い主、神の子と信じて触れた者がいるということです。誰が触ったかがはっきりするまでは動かない。頑としてイエス様は立ち止まったままです。そのとき女の人は耐えられなくなりました。

 

33節に「その女は自分の身に起ったことを知って、恐れおののきながら進み出て、みまえにひれ伏して、すべてありのままを申し上げた」と。こうなったら逃げようがない。イエス様は動かないで、「誰か触った者がいる。誰か、誰か」と言われるのですから、この女の人にとってはどうにも黙っているわけにはいかなくなった。「実は私です」と、彼女はイエス様の前に進み出まして、「すべてありのままを申し上げた」のです。それまで自分が経験してきたいろいろな過去のことも全部をイエス様に告白してしまうのです。これは彼女にとってはつらいことであったでしょう。自分の失敗や馬鹿げたことや愚かなこととか、何もかもイエス様に伝えなければならない。そこには大勢の人々が聞いているのです。だから「私のことをどう思うかしら」とか心配にもなるだろうし、「こんなこと恥ずかしい」と思うし、いろいろなことがあったのですが、それ以上に自分の病気が癒されたことを黙っているわけにはいかない。それでイエス様の前に全てのことを打ち明けたのです。

 

34節に「イエスはその女に言われた、『娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい』」。イエス様はこの女の人にはっきりと一つの確信を与えてくださった。それは「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われています。イエス様が「あなたの病気が癒されたのは、わたしがしたんだよ。あなたはこの恩義に感じてわたしのために少しぐらい役に立てよ」とか、そんなことをおっしゃったのではありません。イエス様は「あなたの病気が癒されたのは、誰の力によるのでもない。実はあなたが信じたからですよ」と。「あなたの信仰があなたを救ったのです」。これはただ単にイエス様に触れる人、身体に触った人はたくさんいました。群衆が押し合っていますから、イエス様に触れる人はいくらでもいる。ところが、信仰をもって、信じて、イエス様に触れる人がその信仰のゆえに病が癒されたのです。

 

今でもそうです。私どもは「神癒」を信じますが、それは神様の何か不思議な超自然的な力が落雷のごとく体に電気が走って、一瞬にして、「は、治った」という、そういう電気治療のようなものとは違うのです。大切なのは一人一人が神様を信じる。イエス様を癒し主と信じること、その信仰のゆえに答えられるのです。だからイエス様はこの女の人に「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われたのです。誰がこの病を癒したか? それは確かにイエス様ではあったかもしれないが、それ以上に本人が信じなければその結果を得ることができない。この場合はこの女の人の病に付いてでありますが、信仰とはまさにここです。誰が信じるといって、その人自身が信じないことには始まらない。

 

神様がいらっしゃることもそうです。「目に見えないじゃないか。神様なんかどこにいるのだ」と、言えばそのとおりであります。だから、多くの人は「そんな目に見えないものを信じられるか」と、「神様なんかいるわけはないじゃないか」と言います。「神様はいらっしゃいますよ」といくら言っても、その人が信じないかぎり、神がいますことは分からないのであります。神様がいらっしゃることを知るには、私たち一人一人がそれを信じるか信じないかに掛っている。目に見える姿かたちで神様がご自分をあらわしてくださることはありません。真っ白な壁に、何かもやもやっと訳の分からない模様が出た。「これは神様がいらっしゃる証拠だ。誰が見てもこれは疑いの余地がない」というような、神様はそんな御方ではない。神様は確かに全てのものを創造された御方でいらっしゃいます。だから「ローマ人への手紙」にありますように、「神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである」(1:20)と語られています。確かに造られた大自然といいますか、森羅万象のいろいろなことを見て、人の力を越えた大きな力、神様という御方がそこに働いて、一つ一つを造り出している、と信じる人は誠に幸いであります。ところが「そんなものは自然に出来た物、こういう因果関係があって、これがこうなって、その次はこうなったから、こうなった」と、ただ自分の知恵と知識で理解できる世界だけで物事が完結している。全てそれで終わりだという人にとっては、神様は存在しません。だから、神がいらっしゃるか、いらっしゃらないかという議論はいくらやっても役に立たないというか、何の結果も出てこない。大切なのは、「信じる」ことです。信じた人に神様は具体的なの力とわざをあらわしてくださる。

 

この女の人がイエス様を神の御子、神様から遣わされた救い主であることを信じて、イエス様に触れたからこそ不思議なみわざを体験したのです。だからといって、イエス様は当時の男性たちとどこか違ったところがあって、誰が見てもこの人は神の子だと見えるような異様な風ぼうをしていたわけでもありません。ただの私たちと同じ人となった御方であります。しかし、その見えている事柄の背後に見えない神様を信じること、これが実は信仰です。

 

だから、「あなたの信仰があなたを救ったのです」とイエス様がおっしゃるように、私がいま何を信じているのか? 私は何を信じて生きているのか? ここが大切なことであります。それによって、私たちの人生のあり方が変わってくるし、また私たちが神様を信じていくとき、信じる者に神様は具体的に「わたしがいるよ」と、深く悟らせてくださる。言葉で説明はできないけれども、「確かに、神なる御方、人の力を越えた大きな力をもって、私が造られ、生かされている」と感じるといいますか、悟るのです。心の深みにしっかりと確信を与えられるのです。それは信じる人にしか得られないのです。ですから、聖書にいわれているとおり、私たちが信じることが何よりも幸いな恵みなのです。このときもこの女の人はその信仰のゆえに病が癒されて、喜びにあふれて、確かに神様が病を癒してくださる御方であることを体験したのです。

 

それはそれで良かったのですが、そこで時間を費やしてしまった。35節に「イエスが、まだ話しておられるうちに」とあるように、まだ、その女の人と話をしているとき、死にかけていた娘の家から使いの人がやって来る。「あなたの娘はなくなりました。このうえ、先生を煩わすには及びますまい」と伝えてくる。ちょっと時間がたちすぎたのです。人間的にいうならば、「イエス様はもっと早く行けば良かったのに」と、周囲の人はがっかりしたに違いない。殊にお父さんのヤイロはイエス様に失望したでしょう。恐らく「こんな女の人に引っ掛かってしまって、自分の娘は死んでしまって……」と思ったでしょう。だからここで「あなたの娘はなくなりました。このうえ、先生を煩わすには及びますまい」と。「もう来てもらっても仕方がない。いくらイエス様だって死んだ人を生かすなんて、これはもう無理」と。ところがそのときに36節に「イエスはその話している言葉を聞き流して、会堂司に言われた、『恐れることはない。ただ信じなさい』」。ここで大切なことが幾つかありますが、「話している言葉を聞き流して」とあります。これは誠に大切なことだと思います。私たちはいろいろなことを聞きます。このときもイエス様は「先生に来てもらっても仕方がない。もう死んでしまったのだから」と聞いている。でもイエス様は「その話している言葉を聞き流す」のです。それに心を留めない。というのは、私たちのいちばん弱い所は何かといいますと、すぐ聞くのです。そして聞いた言葉が心に引っ掛かる。これが実に危険極まりないといいますか、私たちの心を不安定にしてしまう。イエス様は「言葉を聞き流して」、さらに「恐れることはない」、恐れるなと言われます。

 

言葉を聞くと、恐れが生じるのです。“恐れ”は、私たちにとっていちばんの敵です。何かを恐れ始めると、恐れは一気に膨らんできます。そして私たちの心を神様から引き離していく。恐れは、ある意味では「サタンの力」と考えていただいたらいい。決して恐れから何か良い結果を得ることは決してできません。心に恐れを抱くと、人は弱くなります。ちょっとした物音でびくつきます。恐れが心にありますと、次から次へと人のうわさや根も葉もない言葉にすら非常に大きなショックを受けます。それによって動揺するのです。そういう例は聖書に幾つもあります。一つ読んでおきたいと思います。

 

「サムエル記上」21章10節から13節までを朗読。

 

これはダビデがサウル王様に命を狙(ねら)われて逃げているときであります。彼は10節に「その日サウルを恐れて」とあります。恐れが生じたのです。サウル王様が怖いと思ったとき、彼は逃げ出さざるを得ないのです。彼は急いで逃げました。どこへ逃げたかというと、「ガテの王アキシのところへ」、これはペリシテ人の部族長でもある人物です。このペリシテ人はイスラエルと敵対関係にあった民族です。ところが、ダビデはサウル王様を恐れるがゆえに、敵の所へ身を隠すのです。ガテの王アキシのところへと逃げて行きます。ペリシテ人の国に逃げ込んだのですが、そこでダビデの身元がばれそうになる。11節に「アキシの家来たちはアキシに言った、『これはあの国の王ダビデではありませんか』」と。まだダビデは王ではなかったのですが、次なる王様として任命されるといいますか、任職の油を受けていましたから、すでに多くの人々は次なる王様は、いや、王様はダビデだ、というぐらいに思われていた。ですから、アキシの家来たちはダビデを見たときに、「これはあのダビデじゃないか」と思ったのです。そのときに12節に「ダビデは、これらの言葉を心におき」とあります。その言葉を心に留めてしまった。そのとき、彼はもっと恐れが増幅していきます。とうとう気違いの振りをするといいますか、気が触れた振りをするわけです。13節に「人々の前で、わざと挙動を変え、捕えられて気が変になったふりをし、門のとびらを打ちたたき、よだれを流して、ひげに伝わらせた」とあります。実に無様(ぶざま)な、何とも情けない格好をさらすのです。

 

ここを読みますと、「ダビデは何て馬鹿なことをするんだ」と思いますが、私たちもいつもそれと似たようなことをしているのです。「あの人がこう言ったよ」とか、あるいは「こういうことがあったよ」と。私も自分自身そういうことに弱い所がありまして、病気などをするとすぐそうなります。人の言葉……、今は人の言葉ばかりでなくて、広くいうならば情報です。インターネットや何かでいろいろな情報が出てきます。そういうものを調べると、それが心に残るのです。「あんなことを言っているけれども、大丈夫だろうか」と、また心配や不安や恐れ、殊に恐れがいよいよ深くなっていきます。

 

私も病気をしましたとき、いろいろな情報を調べました。そうすると、あまり良い話は出てこないのです。「こうしたら、このように悪くなった」とか、「あそこでこういう風になったら、こうなってしまった」。その次は「何年で死んでしまった」とか、「こうなるのか」と、それが心に引っ掛かると「どうしよう」と心が揺れる。

 

「イザヤ書」7章1、2節を朗読。

 

これは北イスラエルの人たちとスリヤの王様が連合してエルサレムを攻めて来たときのことです。そのときエフライムがスリヤにも同盟を持ちかけて、結局ユダの国は孤立無援になったという状況だったのです。そういうニュースを聞いて、アハズ王様の心と「民の心とは風に動かされる林の木のように動揺した」。このたとえは実に絶妙ではありませんか。風が吹いているとき、木々がザーッと揺れる。恐れに支配されると、もう居たたまれなくなってきます。ジーッとしておられない。といって、現実にそのことが起こっているわけではない。聞いた話、言葉だけです。その言葉に心を留める。ダビデが人々のうわさをしている言葉を聞いた瞬間、恐れのために常軌を逸した、とんでもない行動に出て行ったように、私たちも恐れに支配されると大失敗をします。

 

「マルコによる福音書」5章36節に、「イエスはその話している言葉を聞き流して」と、これがイエス様の真骨頂といいますか、実にイエス様らしいところです。人が何と言おうと、それに耳を貸さない。心を留めない、聞き流す。私どもも他人が何を言おうと、一々それを気に留めない。聞き流すことを努めなければ、恐れに取り囲まれます。じゃ、どうするか? ここに「恐れることはない」とおっしゃるでしょう。もっと大切な恐れるべきものがあるのです。

 

「ルカによる福音書」12章1節から7節までを朗読。

 

4節に「そこでわたしの友であるあなたがたに言うが、からだを殺しても、そのあとでそれ以上なにもできない者どもを恐れるな」と。何を私たちはいちばん恐れるかというと、体のことです。病気をすれば殊にそうでありますが、「死ぬんじゃないか」と、肉体の命を失うことを恐れる。経済的な問題であろうと、どんな問題であろうと、「ひょっとしたら生活ができなくなるのではないか」、「こういうことになって私は死ぬのではないかしら」と、最終的には死の恐れが絶えずそこに付きまとってくる。でも、ここでイエス様がおっしゃるのは、「からだを殺しても」、たとえ病気であろうと、あるいは何か事故や事情、境遇、問題の中で行き詰ってしまって、確かに命を失うような事態に置かれても、それはあくまでも肉体の死であって、ただそれだけでおしまい。「からだを殺しても、そのあとでそれ以上なにもできない者」でしかない。それはただ肉体の死で終わってしまうだけ。それがどうして怖いことがあろうかと。「恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう」と、それは何か? 「殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のあるかた」と。これは誰のことか? 神様です。私たちの命を握っていらっしゃる神様は、肉体の死だけではなく、魂をも滅ぼす方。実は、私たちの死は肉体の死で終わりではありません。この体を脱ぎ捨てて、目に見えるものは消えていくかもしれないが、私たちの魂は決して滅びることはない。「一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっている」(9:27)と「ヘブル人への手紙」にありますが、私たちが必ず神様の前に裁かれるときがくる。最後の審判の時が備えられている。その終わりの時に永遠の滅びに定められること、これをよく知っておかなければならない。またその地獄に投げ込む力ある神様の前に、私たちは日々立っている。このことを恐れなければ、私たちは他に何を恐れるべきことがあるかと問われたのです。5節に「恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう。殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい。そうだ、あなたがたに言っておくが、そのかたを恐れなさい」。この力ある御方、権威ある御方、全てのものをご支配し、それを裁くことのできる、永遠の滅びに定めることのできる力ある御方、神様が私たちを握っておられる。そして、神様は6節に「五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。しかも、その一羽も神のみまえで忘れられてはいない」と。「二アサリオン」が幾らぐらいか知りませんが、いずれにしても実に安い値段で売られているありふれた鳥です。すずめなんて誰一人見向きもしない。そういう人の目にも留まらないような値打のないものですらも、神様の許しがなければ一羽も地に落ちない。言い換えますと、神様はそういう小さなものをまで、しっかりとご自分の力ある御手をもって握って、支えてくださる。

 

ましてや、「その上、あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている」。私たちの髪の毛、今朝何本あったかご存じですか。自分の頭であっても、誰もそれを知らないのです。でも、神様は私たちの髪の毛の数ですらも全部数えておられる。そんな神様が私たちを愛してくださったとおっしゃる。ひとり子を私たちのためにこの世に遣わして、罪のあがないを成し遂げ、限りないご愛をもって、「あなたを愛している」とおっしゃるのです。その神様が「あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である」とおっしゃる。私たちはどんなものよりも神に近いものとして造られた存在であります。そういう私たちが人の言葉を聞いて、びくついて恐れ、そして到底そんなことをするはずがないようなとんでもないことをする。恐れのゆえにダビデは気が違ったような振りをする。まさにそんな愚かなことをしてしまう。

 

「マルコによる福音書」5章36節に、「イエスはその話している言葉を聞き流して」と。私どもは聞かなくてもいいのに、「え!何、何、今、何て言った」と、聞かなくていい事を聞こうとする。聞いたらそれが気になって心から離れません。聞くべき御方は誰か? 「地獄に投げ込む権威のあるかた」のお言葉を聞き、これを恐れることが私たちの力となるのです。だから、聖書にある御言葉、まず神様のお言葉を聞くことが何よりも大事です。それを抜きにして、人が何か言っていること、あるいは情報といわれるものに心を向けると、私たちは失敗をします。

 

今年も私たちの耳にいろいろなことが聞こえてくると思いますけれども、聞き流す訓練をしてください。ところが、聞かなくてもいいのに、それを聞こうとする。これが私たちの悪い所です。だから、イエス様が「恐れることはない。ただ信じなさい」とおっしゃいます。何を信じる? 神を信じなさいということです。神様が全てのことを握っていらっしゃる。

 

私は近頃しみじみとそのことを教えられます。どんなことでも神様の手の中にあるのです。だから人が「ああしようか」「こうしようか」「こうなったらどうしようか」と、そんなことをいくら考えたって分かりっこないのです。だから、私どもはまず「神を信じる」。言い換えると、神様がいますことと、神様は私たちに報いてくださる。きちっと応答してくださる生ける神でいらっしゃることを信じるのです。

 

このときもイエス様の周囲にいる人たちが「もう死んでしまった。イエス様に来てもらっても仕方がない。これはもうお断りしましょう」というような話だった。ところがイエス様は会堂司に、「恐れることはない。ただ信じなさい」。私たちはいつもこのお言葉に立つ。「(おそ)るな、ただ信ぜよ」(文語訳)と主はおっしゃいます。他人の言葉を聞いて、「あれはどうなっただろうか」「ああそうか。あんなことを言われたけれども、きっとあれはこういう意味に違いない」、根も葉もないことを次から次へと考えて、一晩眠られなくて、朝になって、「どうして、昨夜あんなに眠られなかったのか」という時、「(おそ)るな、ただ信ぜよ」と、もう一度御言葉に立ち返る。これがベストの道です。私はいつもこのお言葉によって、どれほど励まされ、力付けられたか、分かりません。気が付かないうちに一つのことを考え始めると、良からぬことばかり考えますから、次々と恐れを生みだして広がっていきます。そのときに「懼(おそ)るな、ただ信ぜよ」、このお言葉に立ち返る。

 

 だから、いつでもこのみ言葉が心に留まります。「懼(おそ)るな、ただ信ぜよ」と、自分に3回言ってご覧なさい。そのくらい私どもはすぐに恐れる。恐れると、恐れたものに支配され、奴隷になってしまう。人を恐れると、その人の奴隷です。事情、境遇を恐れると、その事情、境遇、問題の奴隷となってしまう。私たちはキリストの奴隷です。いつもキリストを恐れる。神を恐れる者となる。これが何よりも幸いなことです。

 

 このとき、イエス様はそう言って、会堂司を励ましました。その後彼らは亡くなった子供の部屋に入って祈りました。41節以下に「そして子供の手を取って、『タリタ、クミ』と言われた。それは、『少女よ、さあ、起きなさい』という意味である。 42 すると、少女はすぐに起き上がって、歩き出した。十二歳にもなっていたからである」。その女の子はイエス様が祈った祈りに答えられて、生き返ったのです。これはまさに信じた結果です。「懼(おそ)るな、ただ信ぜよ」。ここが会堂司の信仰です。イエス様が「タリタ、クミ」と引き上げてくださったのは確かですが、そこにいた人たちが共に必ずそのことをなしてくださると信じた。神を信じたのです。いろいろなことの中で、神様がこのことを握っておられる。神様のわざがここにあらわされようとしているのだと信じていく。これが神様の力を受ける秘けつであります。

 

 いろいろなことで恐れが次々と心に留まりますが、その度に「懼(おそ)るな」「恐れてはならない。ただ信じなさい」と。ただ神様を信じて、その御方にしっかりと心をつないでいきたいと思います。

 

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。

ジャンル名:ウェブログ

  •  
  •